尾高城の歴史

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築城年代・築城者は定かではないが、鎌倉時代から築かれたようであり、室町時代、山名氏支配下では行松正盛が居城していた。
尾高城は中世の東西交通路をおさえる西伯耆の軍事上の中心地となり、尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となった。
尼子回復戦のおり、尼子の勇将 山中鹿介が捕われこの城にいたとき、赤痢と偽って樋口から脱出したとう逸話は有名である。

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1524年(大永4年) に出雲月山富田城主尼子経久の伯耆侵攻により城を追われ、尼子方の吉田光倫が在番した。

1563年(永禄6年) 毛利元就に従っていた行松正盛が城主に返り咲くが、永禄7年死去、替わって杉原盛重が城主となった。

1569年(永禄12年) 尼子氏再興の旗揚げをした山中鹿介らが一時城を奪った。

1581年(天正9年) 杉原盛重、八橋城において没する。

1583年(天正11年) 伯耆国佐陀に有る杉原景盛が兄元盛を謀殺するが、天正12年に毛利氏に攻められ戦死。
吉田元重が尾高城に在番。

1600年頃(慶長5年) 関ヶ原の戦功により駿府城主中村忠一が17万石で入国。米子城完成まで尾高城を居城とし、米子城完成と共に廃城となった。

その他概要

尾高城跡周辺には尾高御建山遺跡など原始古代の遺跡も多い。弥生時代後期には弥生の拠点的である集落・尾高浅山遺跡が、また古墳時代前期には尾高城跡の大首地区に豪族方形館跡など注目される遺跡がある。

城跡は標高40mの河岸段丘上にあり、背後に大山、眼前に箕蚊屋(みのかや)平野が広がる。北から二の丸・本丸・中の丸・天神丸・後方の館跡など八つの郭があり、堀や土塁で守られ、平常の生活を営む館と城とがつながっている中世の城郭遺跡である。

<参考文献>
米子市教育委員会文化課「城跡巡り資料」
伯耆民談記

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